駿河国原宿(するがのくにはらじゅく)長沢家の三男として貞享(じょうきょう)2年に生まれ、名を岩次郎といった。
15歳の時、原の松陰寺(しょういんじ)で出家され、慧鶴(えかく)と名づけられた。
19歳より旅に出て諸国を修行。
五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に[日本臨済宗中興の祖]と仰がれるようになった。そして、全国諸寺で積極的に禅の講義を行う。
坐禅(ざぜん)とは縁遠い一般大衆に向けた啓蒙にも積極的で、書画をよく描き、和文の坐禅和賛(ざぜんわさん)・仮名法語(かなほうご)を著すなど、禅の普及に努めた。
著書は多数ある。それらは、難解な漢文語録と仮名法語に分かれる。
また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和(めいわ)5年 84歳で遷化、御桜町(ごさくらまち)天皇より神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)を、明治天皇からは正宗国師(しょうしゅうこくし)の諡号(しごう)を賜った。
宝暦(ほうれき)8年(1758)74歳