鈴鹿市白子の禅寺 龍源寺:龍源寺ゆかりの人物

龍源寺ゆかりの人物 by 鈴鹿市白子の禅寺 龍源寺

平敦盛(たいらのあつもり)

(1169〜1184)

平安時代末期の武士で平経盛(つねもり)の子。
寿永3年(1184)、源平一ノ谷の戦い(げんぺいいちのたにたたかい)で熊谷直実(くまがいなおざね)によって討たれる。
平家物語において敦盛が直実に討たれるその場面は有名であり、謡曲(ようきょく)「敦盛」の題材にもなった。
横笛の名手として知られており、討たれた時も「小枝(さえだ)の笛」を所持していた。

青葉の笛(小枝の笛)
敦盛の祖父・忠盛(ただもり)が鳥羽院から拝領した名笛(めいてき)。
現在、神戸の須磨寺(すまでら)に宝物としてつたえられている。

江南禅師(こうなんぜんじ)

亨禄(きょうろく)3年(1530)春、妙心寺住職に。
永禄(えいろく)5年(1562) 9月29日に遷化(せんげ)

有山主馬助

南北朝時代には有田氏が川後(かわじり:川尻)城を築き、信長の北伊勢侵攻までこの地で統治していた。
「北畠暦記(きたばたけりゃくき)」「伊勢国太平記」に北畠家臣として記す。
「姓氏家系(せいじかけい)大辞典」によると伊勢の有山氏・有山主馬助は三重郡川尻城主で、永禄11年に信長の為に亡ぼされたとされている。

白隠禅師(はくいんぜんじ)

(1685〜1768)

駿河国原宿(するがのくにはらじゅく)長沢家の三男として貞享(じょうきょう)2年に生まれ、名を岩次郎といった。
15歳の時、原の松陰寺(しょういんじ)で出家され、慧鶴(えかく)と名づけられた。
19歳より旅に出て諸国を修行。
五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に[日本臨済宗中興の祖]と仰がれるようになった。そして、全国諸寺で積極的に禅の講義を行う。

坐禅(ざぜん)とは縁遠い一般大衆に向けた啓蒙にも積極的で、書画をよく描き、和文の坐禅和賛(ざぜんわさん)・仮名法語(かなほうご)を著すなど、禅の普及に努めた。
著書は多数ある。それらは、難解な漢文語録と仮名法語に分かれる。

語録
「毒語心経(どくごしんぎょう)」「槐安国語(かいあんこくご)」等
仮名法語
健康法を説いた「夜船閑話(やせんかんわ)」等

また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和(めいわ)5年 84歳で遷化、御桜町(ごさくらまち)天皇より神機独妙禅師(しんきどくみょうぜんじ)を、明治天皇からは正宗国師(しょうしゅうこくし)の諡号(しごう)を賜った。

龍源寺足蹟

白隠禅師 龍源寺足蹟

宝暦(ほうれき)8年(1758)74歳

東嶺禅師(とうれいぜんじ)

(1721〜1792)

近江国(おうみのくに)神崎で享保(きょうほう)6年に生まれ、9歳の時に神崎の大徳寺で出家、17歳より行脚(あんぎゃ)の旅に出る。
23歳の2月、ここ龍源寺での修行後、駿河(するが)の白隠禅師に師事する。

一時、病をえて白隠のもとを離れたが再び帰り、29歳で白隠禅師より嗣法(しほう)する。その時、白隠をして「我が弟子百人を超えるが、東嶺に優る者なし」と賛嘆せしめた。
この後、白隠の諸国教化に随侍して布教を助ける。
白隠の死後、師匠と同様に諸寺の求めに応じ、禅の布教に努める。

著書には禅修業の手引き「宗門無尽燈論(しゅうもんむじんとうろん)」をはじめ「白隠禅師年譜」等など多数ある。
書画も白隠に劣らず大胆で、独創的な世界を形成している。

寛政(かんせい)4年 72歳で遷化、朝廷より仏護神照禅師(ぶつごしんしょうぜんじ)の諡号を賜わる。

龍源寺足蹟

寛保(かんぽう)2年(1742)
22歳
宝暦10年(1760)
40歳
天明(てんめい)2年(1782)
62歳


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